2015年10月5日月曜日

ミア・ハンセン=ラブ監督『EDEN』



すこし。
まえのはなしになるんですけれど、ミア・ハンセン=ラブ監督『EDEN』をみました。
ミア・ハンセン=ラブは5年ほどまえ日仏で『すべて許される』をみてから大好きで。アサイヤスの良心だけをちゃんと習得したかんじ。
でも今作はすこしわたしのなかで冷静にみられない予感があって、なぜかというとフレンチタッチな時代のはなしで、20代の終わりまで、フランスがすべてただしい、colletteこそ正義で、それにしたがってフレンチタッチのあとはエレクトロクラッシュにうつったけれども、そのあたりはかなり追っていたし、でも、もはやフランスのことなんて一切忘れた30代ももはや残すところ3年となったいま、なつかしさしかない。なつかしいってしんどい感覚。
あのころの音楽がかかりまくって、いちいち耳を心をしめつけてくる、とおもいきや、そんなにあのあたりがかかることもなく。でも兄があのころのDJだったんだと。3年まえにみた『グッバイ・ファーストラブ』でWe In Musicかかったりしてたのが納得いったり。
あとはキッチンにSuper Discountのシールが貼っつけられてて、わたしも冷蔵庫に貼っつけてたとか、船のクラブとか、まぁ、拾うといろいろとあるけれど。

おおよそみんなみてるだろうから、かなりすっとばして感想をかけば、主人公の兄をモデルにしたDJの人生のゆるい転落なんだけれども、撮られてるのは女性だった、ずっと。
クラブのひとごみをすりぬけてゆくところとか、パリで再開したむかしの彼女の娘たちとか、つぎからつぎに変わる女性たちの一瞬を重ねてゆくかんじ。
そこまで深く関わらないクラブの店員の女の子が客をすりぬけてゆくところまで撮ってたり。
これまでもでていった父親や別れた初恋の男、自殺してしまった父親を対照的な位置において、、少女の一瞬一瞬の表情を淡々とリズミカルに撮ってきたかんじだけれど、こんどはその軸のまわりをまわってるかんじですすむはなし。あくまでも少女っていう。いや、母親も描いていたりと、いつまでもおとなになれない主人公をつねに母性でつつんであたたかく、ただあつかましくない距離で見守ってる、すがたを見守ってるかんじ。
そしてアメリカでの移動のところとか、最後の詩の文字をいれてくるあたりだとか、すこしの遊びもあったりと、やっぱりミア・ハンセン=ラブだった、しっかり。

で、帰ってからRouleのんとかOnly Paradiceとかあのあたりのレコードを引っ張り出してきいてみたら、なつかしさに襲われて死ぬところだった。

最後にパリへいったのは、もはや8年もまえで、そのときも彼女と別れてしごとも一旦やめて、Point EphemerでのMockyライブにあわせていったんだけれど、再びMockyをみられるタイミングが、またいまっていう。なにかしら、転機なのかしらとかおもったり、ただの偶然だともおもうし、無理からに結びつけてるだけかもしれないけれども。
想い出話をするよりもあたらしく届いたもの、知ったことについてかんがえることのほうが好きなんだけれど、いろいろとこれまでのことをかんがえる時期なのかしらとおもうくらいに、いろいろと。
そしてあのときのようにストッキングを頭からかぶって演奏するとかは絶対にしないだろう、音もおとなになったMockyと比べてわたしはあのときのままどころかいろいろとこじらせてしまっていて、そのあたりでEDENの主人公とか、ひとごとでないとかおもったりして、文化のころは小説をとかおもっていたんで、より。小説教室とか通おうかしら。

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